東京建物 Brillia HALLという劇場
今回の観劇の舞台となったのは、東京建物 Brillia HALLです。
池袋に位置するこの劇場は、舞台と客席の距離の近さに定評があります。

すり鉢状の構造上、観客が落下しないために設置された手摺が、3階席では観劇中に視野に入ると聞いたことがあり、多少の不安もありましたが、実際にはさほど気になりませんでした。
今回のように、ひとりの芸術家の内面に深く潜っていく作品において、このホールの舞台と客席の距離感は、とても大きな意味を持っていたように感じます。

作品概要
雪組公演『デイドリーム・ダリ』は、20世紀を代表する芸術家であるサルバドール・ダリの精神世界を、“白昼夢”のように描いた作品です。
主演のダリを演じるのは瀬央ゆりあさん。
髭が似合うのは言わずもがな、この作品は瀬央さんへのあてがきではないかと思われるほど、見事に重なるお役でした。
世間では奇才、天才、奇天烈といった印象で語られることの多いダリですが、私にとっては、卵の殻に閉じこもった赤子のような脆さと儚さを併せ持つ存在です。
その気弱で優しい一面が、瀬央さんの持つ柔らかさとユーモアによって、繊細にすくい上げられていました。
当たり役とはこういうことなのだと、深く頷かされます。
そして妻ガラを演じるのは輝月ゆうまさんです。
輝月さんは本作において“女装”という形で、ダリにとってのミューズであるガラを演じておられます。
その力強さ、色気、そして人間味。どれをとっても見事で、この役は輝月さんにしか成し得ないものだと感じました。
瀬央さんのダリと輝月さんのガラ。
その二人が響き合うことで、ひとつの関係性としてのダリとガラが立ち上がっていたように思います。
あらすじ──ダリランドで“止められた時間”
物語は、ダリが晩年に起こした寝室での火災ののちから始まります。
彼のもとを訪れるのは、晩年の愛人であったアマンダリア。
ベッドに横たわり、夢うつつの中にいるダリの前に現れるのが、自らの絵画の世界からやってきた案内人ナルシス(華世京さん)です。
ナルシスはある使命を携え、ダリを“ダリランド”へと導きます。
若き姿を取り戻したダリが辿り着いたその世界では、時を刻むはずの時計が、すでにこの世を去ったクイーン・ガラによって破壊されていました。
時計からは、1から11までの数字が擬人化された存在として飛び出し、失われた時間を取り戻すために動き出します。
ナルシスをはじめ、この白塗りの数字たちが、サーカスのようでもあり、『不思議の国のアリス』を思わせるような、奇妙で摩訶不思議な世界観を形作り、観客を一気にダリランドへと誘います。
ナルシスはキング・ダリをこの世界へ連れてきた理由として、壊された時計を修復し、この世界の王として再び君臨してほしいと懇願します。
久々の再会を喜ぶダリと対峙したガラは、「ここはあなたが来る世界ではない」と彼を激しく拒絶し、これまで決して口にしなかった「さようなら」という言葉を突きつけます。
その言葉をきっかけに、ダリはダリランドを巡りながら、自らの人生を振り返る旅へと出ます。
生まれてすぐ死んだ兄と同じ名前を付けられた宿命的な生い立ち、人妻だったガラとの運命的な出会い、そしてガラと二人、アメリカで時代の寵児となった日々――。
その過程で、ダリは改めてガラへの愛を見つめ直していきます。
一方で、ガラもまた葛藤を抱えていました。
金銭のためにダリの贋作制作に関わってしまった過去。
そして、ダリという芸術家の人生に深く関わったことへの責任。
やがて明かされる、ガラが時計を破壊した理由。
それは、ガラ亡き後、ダリが火災という形で自ら命を絶とうとしたことを食い止めるためでした。
愛する人を救うために、時間を止める。
それは破壊でありながら、祈りでもあったのだと思います。
ダリとガラ──芸術と人生のあわいで
本作を通して強く感じたのは、ガラという存在の複雑さでした。
ダリにとって彼女は、創作の源であり、人生を決定づける存在でもあります。
しかし同時に、彼の人生を大きく変えてしまった人物でもあるのだと思います。
もし出会わなければ、ダリはもっと穏やかに生きることができたのではないか。
けれど、出会わなければ生まれなかった作品がある。
その相反する想いを、ガラ自身が抱えていたように感じられました。
自らの人生もまた芸術作品であろうとしたダリ。
その在り方を支えながらも、どこかでそれを気の毒に思っていたのではないでしょうか。
せめて最期は、奇才としてではなく、一人の人間として寿命を全うしてほしい。
その願いが、時計を壊すという行為へと繋がっていたように思います。
しかしダリは、そんなガラの想いを知っているからこそ、
ガラ無しの人生はあり得ないと、より一層想いを強めるのです。
夫婦でありながら、親子のようでもあり、同士のようでもある関係。
その魂の結びつきを描いた本作が、同期の男役同士によって演じられていたことは、
この関係性に不思議な説得力を与えていたように感じられました。
対等でありながら、ときに包み込み、支える。
その関係のかたちは、違和感なく、むしろ自然なものとして舞台上に立ち上がっていたように思います。

芸術としての人生──ダリの選択とカタルシス
自らの人生そのものを芸術とすることに、最期までこだわり続けたダリは、ガラのあとを追って自ら命を絶つことで、その作品を完成させようとします。
その結末を望む“芸術”(ナルシス)と、どれほど無様であっても生きていてほしいと願う“愛”(ガラ)。
ダリはそのどちらかを選ぶのではなく、どちらも裏切らないという選択をします。
生きて、“再び描く”という選択。
愛と芸術、そして生と芸術は、両立し得るはずである。
その確信に辿り着いたかのように、ダリは再び筆を取ります。
ダリランドでガラと再会したことで、描けなくなっていた絵を描き始めるダリ。
その象徴が「ダリの太陽」です。
生涯、自画像をほとんど描かなかったダリが、黄色い太陽の右半分に自身の象徴である髭を重ねる。
それは、自らを作品として提示する、ひとつの到達点のようにも感じられました。

ガラに見守られながら、『ダリの太陽』を描くシーンは、非常に美しく、カタルシスに満ちていました。
聖母の慈愛を思わせる眼差しのもと、賛美歌のように響く旋律にあわせて、キャンバスへと筆が運ばれていく。
その場面のもたらす浄化を、帰り道に反芻しながら、どこか既視感のようなものを覚えました。
思い至ったのは、望海風斗さんと真彩希帆さんの退団公演『f f f -フォルティッシッシモ-
~歓喜に歌え!~』です。
トップスターの退団公演はそれだけで特別ですが、トップ娘役も同時退団なうえに、これまでのトップコンビの概念を覆す二人の愛のかたちに衝撃を受けました。 |
“謎の女”が、この世の哀しみそのものであったと知ったベートーヴェンが、それでもなお「お前を愛するよ」と包み込む。
あのときに感じた感情と、どこか深く通じるものがあったように思います。
私は『fff』を映像でしか拝見していませんが、それでも胸に迫るものがあり、忘れがたい作品のひとつです。
いつかその感想も書きたいと思っていました。
その作品の系譜とも言えるような“浄化の瞬間”が、今回、雪組の舞台で立ち現れたこと。
そして、その中心に、あのとき雪組にはいなかった瀬央ゆりあさんと輝月ゆうまさんが立っていたこと。
そこに、どこか運命のようなものを感じずにはいられませんでした。
舞台表現と胸に刺さる歌
水面に映る自分に恋し、水仙の花へと変貌するナルキッソスの神話。
そこから連想される水仙の花、そしてその源としての卵。
変容しない硬さの象徴であるロブスター。
そして、本来は硬いはずのものが溶けるという逆説を体現した、チーズのように柔らかく崩れる時計――。
こうしたダリ特有のモチーフが、舞台上に散りばめられていました。
本作では、「記憶の固執」や「ダリの太陽」といった実在の作品そのものは使用されていませんが、それらを想起させる舞台装置や演出によって、ダリの世界観は十分に表現されていました。
具体的な作品を再現するのではなく、“ダリ的なるもの”を立ち上げる。
その方法が、この作品にはよく似合っていたように思います。
シュルレアリスムという芸術を愛と評した歌では、
「見えざるものを見よう 閉ざされた希望 照らし出す太陽」と歌い、
それは単なる芸術の定義ではなく、
サルバドール・ダリという存在そのものを言い当てる言葉のように響きます。
さらに「髭の生えた太陽」では、
自分への愛、ガラへの愛、芸術への愛を越えて、
やがて世界そのものを包み込もうとするような、
より大きな愛へと視界がひらかれていきます。
「この世界の果てまでも 愛とユーモア届ける
その暖かさですべてを包む 髭の生えた太陽
この記憶の果てまでも 滅びと再生繰り返す
一度見たら忘れられない 髭の生えた太陽」
ここで歌われているのは、
ただ奇抜で不可思議なイメージではなく、
破壊と再生、
不安と希望、
現実と夢――
そうした相反するものすべてを引き受けながら、
なお世界を肯定しようとする眼差しです。
だからこそこの作品における“ダリ的なるもの”とは、
溶ける時計を思わせる造形や、ロブスターといった象徴だけではなく、
それらを通して立ち上がる、
「世界を愛するための方法」そのものだったのではないでしょうか。
世界を愛する入口としてのガラ
ガラ・ダリは単なる伴侶ではなく、
サルバドール・ダリにとって、創作の源泉であり、
現実と夢とを接続する“媒介”のような存在として描かれていたように思います。
ダリの作品において、しばしばガラは理想化され、神話化され、
ときに聖性すら帯びた存在として現れますが、
この舞台でもまた、
ガラは「誰かを愛する」という個人的な感情にとどまらず、
世界そのものを愛するための入口として立ち現れていました。
「髭の生えた太陽」で歌われる愛が、
自分、ガラ、芸術、そして世界へと広がっていく構造は、
ガラという存在が“終着点”ではなく、
むしろ“起点”であることを示しているようにも感じられます。
ひとりの人間をこれほどまでに愛することができるなら、
その愛はやがて世界へと拡張していく――
そんな、少し危うく、それでいてとても美しい確信。
だからこそこの作品においてガラは、
ダリの隣に立つ人物であると同時に、
彼の見る世界そのものを照らし出す、
輝く月だったのではないでしょうか。
ダリの本当の遺作は『燕の尾』と言われています。
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記事内容は、筆者個人の体験や記録に基づいています。
ダリとガラの愛の暗号ダリグラムについて、こちらも是非お読みください。


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